2010年12月26日日曜日

【善と悪】道徳が直観に過ぎないことを示す2つの事例

道徳とは直観に過ぎない。我々日本人は、このように言われてもあまり違和感がないが、こういう見方は、西洋哲学の歴史からは異端的である。

西洋においては、道徳は神が与えたものであるという考え方がされてきた。だから、無神論者であると宣言することは、あたかも不道徳であることと同じように見なされてきた。最近のヨーロッパではそういった見方も少なくなってきたようだが、米国においては現在でも依然として無神論者であると宣言することは危険である。

伝統的なキリスト教徒にとって、道徳は信仰から生まれるものだった。地獄を信じなければ、悪事をしない理由はどこにもないはずだ、というわけだ。そして、キリスト教徒でなくても、道徳は人が造りあげた文化的所産であるという漠然とした思い込みがある人は多い。もし、道徳が生まれつきのものであれば、我々は学校で道徳の授業を教える必要はないのではないか? それに、違う社会には違う道徳が存在している。豚を食べることが道徳的な罪である社会もあれば、目上の人にあからさまに反論することが道徳的に許されない社会もある。そういう事例を見る限り、道徳が生来のものであるとは思えないだろう。

しかし我々は地獄や煉獄を信じていなくても、悪をなさない理由を十分に持っているし、確かに道徳規則の細かい点は文化的所産であって教育に依らなければならないけれども、その基本的な原理は生まれつきのものであると、現在では考えられている。つまり、道徳とは人間生来の機構に根ざすものであり、その意味でフライパンやデリバティブ取引や戦車と同じような人工物ではないのだ。

さて、道徳的直観という言葉を言い換えると、道徳的な「本能」とでもなるであろう。我々は、生来道徳的な生物であるということになる。本当だろうか? ここで、道徳的直観の存在を示す例を2つ提示したい。
【事例1】コントロールが効かなくなった暴走列車が線路上を走っている。このまま走ると、電車に気づいていない線路先にいるハイカー5人が死んでし まう。一方、その5人の前に線路の分岐があり、分岐した線路の先にはハイカーが1人歩いている。そのハイカーも暴走電車に気づいておらず、もし電車が分岐先に進行を変えると、このハイカーも確実に死んでしまう。あなたは、ちょうど分岐器の所にいて、電車の進行線路を変えることができる。さて、あなたは電車の進路を変えるべきだろうか。

【事例2】あなたは外科医である。今、電車事故で5人の重傷者が運び込まれた。5人は心臓や肝臓など、それぞれ違う臓器を一つずつ致命的に損傷している。 しかし、その時血液検査に来ていた5人とは無関係な男の臓器を5人に移植すれば、その男は死んでしまうが、5人を助けられることが分かった。あなたは外科医として、1人を犠牲にして5人を助けるべきかどうか。
これは倫理学の講義でよく出てくる事例なので、知っている人も多いだろう(ちなみに、この2つの事例はイギリスの倫理学者フィリッパ・フット(1920-2010)の考案によるもので、特に【事例1】は「トロッコ問題」として様々な角度から研究されている。)。多くの人の普通の反応は、【事例1】では「電車の進路を変えるべきであるとまでは言えないが、たとえ変えたとしても許されるし、場合によっては変えた方がよい」というもの。【事例2】ではは、「1人を犠牲にすることは絶対に許されない」である。どうしてこのような違いが生まれるのだろうか?

そして興味深いことに、この事例については、文化や宗教の違う様々な地域で調べてみても人々はほとんど同様の反応をとることが分かっている。さらに、仮に道徳が教育の結果であれば、この2つの判断が異なる理由を多くの人が答えられるはずだが、なぜ【事例1】と【事例2】で異なる道徳的判断になるのか、その理由を明確に答えられる人は少ない。しかも、その理由は明確ではないにもかかわらず、その判断は瞬間的かつ強力になされる。これはなぜだろうか?

それに対する一つの答えは、この道徳的判断が本能的に下されているからだ、というものだ。もちろん、これは一つの仮説であって、道徳的な本能が存在することの「証明」にはならない。道徳的本能が存在することを明確に証明するためには、道徳的な情報を一切遮断した状態で一人の人間を育て、結果としてその人が道徳的な判断をなしうるかを調べる必要があるが、これは人権の観点から実現困難な研究である。よって、道徳を生み出す遺伝子でも発見されない限りは道徳が生得的であるかは証明できないだろうが、進化心理学においては、道徳は人類が進化的に身につけたものであるということで研究者の意見は一致している。

さて、ではこの二つの事例において、どのような道徳的直観が働いているのだろうか。これまでの研究では、人間には次のような生得的な直観があると考えられている。
【直観1】より大きな幸福をもたらすための、予見しうる相対的に小さな副作用は許される。
【直観2】仮に、より大きな幸福をもたらすためであれ、信念や欲望を持つ存在(人間や動物)を単なる「手段」として使うことは許されない
二つの事例は、おおざっぱに言えば「1人を犠牲にして5人を助けることはよいことか」という問題であるが、二つとも【直観1】を満たす一方で、【事例2】では5人を助けることは【直観2】に違反するから、「1人を犠牲にすることは絶対に許されない」のだ。

ただし、この二つの事例において、どういう倫理的原理で違った判断がなされるのかという研究が目下進行中であり、あくまで上述の説明は仮説の一つに過ぎないことも注意する必要がある(ここでは、ハーバード大学教授のマーク・ハウザー(1959-)の仮説に準拠して説明した)。

ちなみに、【直観2】はカントが同様の道徳律を主張している。すなわち、「決して自分の目的を達成するための単なる手段として人格を用いてはならない」というものだ(カントの言う「人格」とは、「理性的存在」と同じ意味である)。カントがこのように考えた理由は「理性」を根本原理としたからなのだが、その点においてはカントは間違っていた。【直観2】は「理性」を持たない動物にもある程度適用されるし、それだけでなく、「信念や欲望を持つ存在」と考えられている神や自然物にも適用されうるのだ。

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