2011年1月11日火曜日

【善と悪】身内の利益は自分の利益

なぜ、人間には生まれつきの道徳的直観、つまり「本能的な道徳」が備わっているのであろうか? この問いに対しては、人間はなぜ二足歩行をするのだろうか? ということと同様に、進化生物学を使って答えられるだろうと現在では考えられている。そしてこれは、既にチャールズ・ダーウィン(1809-1882)が示唆していたことでもある。道徳的直観の由来は、進化生物学によってその一端を解明できるのである。

人間が「本能的な道徳」を持っていた理由、それは端的に言って、倫理的であることに利益があったからに他ならない。何らかの利益がない行動や形質は、進化的には発展しないからである(必ずしも淘汰されるとは限らないが)。

では、ここでいう利益とはどういうものだろうか? 

それは、単純に言えば、「その行動をすることによって、そうでない個体よりもより多くの子孫を残すことができた」ということである。つまり、倫理的な個体は多産だった、ということだ。

さらに正確に説明すれば、ここでいう「多くの子孫」というのは、自分自身の子供や孫(つまり直系子孫)である必要はなく、きょうだいやいとこの子孫であってもよい。それは、きょうだいは1/2、いとこは1/8の遺伝子を共有しており、その子孫が繁栄することにより、自分の遺伝子を残すことができるからだ。ある行動や形質が繁栄するかどうかということは、その行動や形質をもたらす遺伝子を持つ個体が増えるか減るかということであるから、自らの子供の数という限定された指標ではなく、自らの遺伝子が次世代にどれだけ継承されるかという指標に注目するほうが、より直接的で正確に遺伝の様子を記述できるのである。

なお、自らの子供の数という指標を進化生物学では「適応度(fitness)」といい、自らの遺伝子が次世代にどれだけ継承されるかという指標を「包括適応度(inclusive fitness)」という。

この用語を使って、「倫理的であることに利益があった」ということを言い直すと、「倫理的であることは、その個体の包括適応度は高くなったのだ」ということになる。

具体的にはこういう状況を思い浮かべていただきたい。
【事例5】あなたは3人のきょうだいとともに事故に遭遇した。きょうだい3人を助けることができるが、そうすると自分は死んでしまう。逆に、あなたが助けなければ、きょうだい3人全員が死んでしまう。あなたはきょうだい3人を助けるべきだろうか(あなたときょうだいは子供であるとする)。
これは、道徳的な問題ではなく、生物学的な問題だと捉えて欲しい。つまり、どういう行動が包括適応度を高めるのかということを考えてみよう。

答えは、自らを犠牲にしてきょうだい3人を助けるべきである、ということだ。なぜならば、あなたときょうだいは1/2の確率で遺伝子を共有しており、3人のきょうだいが持つ遺伝子の総量は1/2 × 3 = 3/2 なので、自分自身の遺伝子の総量(すなわち1)よりも多い。よって、自分一人が生き残るよりも、きょうだい3人が生き残った方が、あなたの遺伝子がより多く残るのである。

普通の感覚では、自分の命を犠牲にして他の人の命を救うことは、それが家族や親戚であっても「徳の高い」行為と見なされる。つまり利己的な人間にはできない行為であると考えられがちだ。しかし遺伝学的に考えると、仮に自分自身に不利益をもたらす行為であっても、家族や親戚の適応度を高める行為は、究極的には自分の利益に適う行為なのであり、その意味で利己的な人間でも行いうる行為なのだ。

では、【事例5】で、きょうだいの数が2人だったらどうだろうか? 答えは、救っても救わなくてもよい、つまり包括適応度は変わらない、である。なぜなら、きょうだい2人だと自分と共有する遺伝子の総量は1/2 × 2 = 1なので、自分自身の遺伝子の総量と変わらないからだ。もちろん、きょうだいの数が1人なら、自分が生き残った方がよい。

さて、ここで一つ補足しておきたい。これまで、きょうだいと自分が遺伝子を共有している確率が1/2、つまり50%であるとしてきたが、これはどういう意味だろうか。よく、チンパンジーは人間と約99%の遺伝子を共有していると言われるが、きょうだいよりチンパンジーの方が遺伝的に近いわけではないだろう。

というわけで、包括適応度の概念を理解する際に重要な「血縁度(relatedness)」の説明をしておきたい。先ほど「きょうだいと自分が遺伝子を共有している確率」が50%であると書いたが、まさしくこれはきょうだいと自分の血縁度が50%であるということにほかならないのだ。さて、血縁度とは何か?

血縁度とは、2つの個体間に定義される確率で、一方が有するある特定の遺伝子に注目したとき、その遺伝子をもう一方の個体が共通の由来から受け継いでいる確率のことである。

つまり、遺伝子自体が同じかどうかということよりも、ある特定の(より正確に言えば「任意の」)遺伝子が共通の由来を持っているかどうか、ということに注目するのである。先ほどの説明では、「遺伝子を共有している確率」と述べたが、正確には「共通の由来を持つ遺伝子を共有している確率」と言わなくてはならなかったのだ。

しかし、この説明だと何のことかよく分からないかもしれないので、具体例で説明しよう。

第1に、自分と親の血縁度は50%である(人間の場合。以下同じ)。なぜなら、自分のもつ任意の遺伝子に着目したとき、人間は減数分裂による生殖を行うので、それは父か母かのどちらかから等確率で受け継いでいるのであり、すなわちその確率が50%だからである。

第2に、自分ときょうだいとの血縁度も50%である。なぜなら、自分の全ての遺伝子は両親のどちらかから受け継いだものであり、両親ときょうだいとの血縁度は50%なので、1/2 × 1/2 + 1/2 × 1/2 =1/2 となる(自分の特定の遺伝子が父由来である確率×両親ときょうだいの血縁度+母由来である確率×両親ときょうだいの血縁度)。

第3に、自分といとこの血縁度は25%(1/8)である。なぜなら、たとえば母のきょうだいの子供のいとこだとすると、母と自分の血縁度(1/2)×母と母のきょうだいの血縁度(1/2)×母のきょうだいとその子供の血縁度(1/2)= 1/8 となるのだ。

ちなみに、包括適応度という概念は、アリやハチのような社会性昆虫の社会において、自らは子孫を残さない不妊性のワーカー(働きアリや働きバチ)が姉妹を育てる役割に特化しているのはなぜか? という問題に答えるために考案されたものである。

アリやハチは、大きな群れ(コロニー)を作るけれども、実はそのほとんどは不妊性のワーカーで、自分自身の子孫は残さない。こういう他の個体の利益になるが自分の利益にならない行動を協力行動の中でも特に「利他行動」というが、子孫を残さない利他行動がどうして進化しうるのか? ということは進化生物学上の謎だった。

それに対するウィリアム・ドナルド・ハミルトン(1936-2000)の答えが、「不妊性ワーカー確かに自分自身の子孫は残さないけれど、(不妊でない)きょうだいを育てることで、自分の遺伝子を残している」ということだった。、アリやハチは人間とは違い、生殖において半倍数性という性決定方式をとっており、きょうだいと自分の血縁度が3/4なのである。よって、人間におけるきょうだいよりも協力行動によって高まる包括適応度が大きいのだ。なお、包括適応度という言葉は、ハミルトンの論文を紹介したジョン・メイナード=スミス(1920-2004)が名付けたものである。

このように、自らの適応度を高める(=子孫を増やす)ことによってではなく、包括適応度を高める(=親戚を増やす)ことによって利他行動が進化することを説明する理論を、血縁選択説(kin selection)という。

先ほども触れたが、こういった理論が出てきた背景には、人間のみならず動物においても、自分を不利にして他の個体に協力する利他行動が観察されるが、そのような行動はどうやって進化したのかという問題意識があった。まさしくこれは、倫理の起源にも関わる問題である。

ことわざに「情けは人のためならず」とあるが、包括適応度の観点からはこのことわざは正しい。利他行動は人のためではなく、自分の包括適応度を高めるために発達したものであり、その意味で自分にも利益があるからだ。「本能的な道徳」の起源を解き明かすには、道徳的行為がどのように包括適応度を高めたのか、という考察が必要なのだ。


【参考文献】
協力行動の進化の理論は、本節で説明したよりもずっと奥深い内容があり、本節はその一部についての簡単なスケッチに過ぎない。より正確に深く知りたい場合には、長谷川真理子先生他による「シリーズ進化学 6 行動・生態の進化」をご覧いただくとよいであろう。

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